「実践酪農学」の記録


「実践酪農学」の記録

【1】放牧酪農について  佐藤智好氏(足寄町酪農家)

【2】教育ファームについて  広瀬文彦氏(帯広市酪農家)

【3】専門農協の取組  野名辰二氏(サツラク部長)

【4】都市近郊酪農の実践  百瀬誠記氏(江別市酪農家)

【5】酪農における男と女の役割  石橋榮紀氏(浜中町農協代表理事組合長)

【6】無畜舎酪農と季節繁殖  出田基子氏(清水町酪農家)

【7】酪農地帯における畜産加工  岡田ミナ子氏(白滝町酪農家)

【8】酪農支援の取り組み  中野松雄氏(鹿追町農協常務理事)

【9】酪農生産法人の歴史  白石康仁氏(卯原内酪農生産組合部長)

【10】農業後継者支援策  山下光治氏(北海道担い手センター)

【11】農場の設計手順  船本末雄氏(北海道農業協同組合中央会)

 
酪農地帯における畜産加工
 
先週に引き続いてやって来ました、白滝村の岡田ミナ子です。よろしくお願い致します。先週は、今の酪農学園の学生さんがどんな感じなのか興味があって来たんです。もしかしたらよだれ垂らして寝てる人が多いのかなと思っていたんですが、本当に皆さん熱心で、特に最後の質問なんか、私がそういう質問されたらどうしようかって思うぐらいの専門的な質問があって、本当にびっくりしました。ですから、今回はとっても楽しみに、一週間待ち遠しくやって来ました。
今ご紹介にありましたけれども、私は昭和50年にこの大学を卒業しまして、翌年の昭和51年に新規入植を白滝村でした。本当にあっという間に30年経ったかなと感じています。
<酪農学園を選んだ理由>
私の出身は東京でして、18歳まで東京の世田谷区で育ちました。もちろん東京ですので、農業とは無縁の中で育ちました。両親も東京出身で、おばあちゃんの所に行って芋掘りをしたとういう経験もありませんでした。じゃあどうしてこの酪農学園を選び、また農業に興味を持ったのかなというと、私はすごく動物好きだったんですね。それで、東京で飼える動物っていったら、犬、猫、兎ぐらいだったんですけど、それを飼いながら、何とか動物に囲まれる生活をしたいなと思っていました。それと、世田谷区に、珍しく一つ牧場があったんですね。私はしょっちゅうそこに犬の散歩に行っていて、それで酪農と始めて出会いました。
それから、皆さんもこの実践酪農コースを選んだぐらいですから、きっと目的がはっきりしてるんじゃないかと思うんですけど、私は大学で学んだことを将来に生かせる、そういう道を選ぶべきだったと思ったんです。私は小学校から小・中・高と青山学院というところに行ってまして、殆どの人が青山学院の英文科を目指していました。親もきっとそれを望んで入れたんだろうと思うんです。でも、動物好きがこうじて、牧場生活をしたいと思って、青山学院を蹴って酪農学園を選んだんです。だからすごく動機は単純でした。私は今新規就農アドバイザーというのをやってるんですけど、「岡田さん、若い子が、牧場やりたいとか、動物が好きだって来るんですよね」ってよく相談受けるんですけど、自分がそうだったので、そういう人でも出来ますよってついつい言っちゃうんです。本当にそういう単純な動機でこの大学に来ました。
<酪農学園を選んだ理由>
<大学生活:女子の少なさ>
今大学のこの教室を見たら、あまりにも立派で本当に驚きですね。私が入った時は、女子が200人中4人しかいなかったので、女子トイレが無かったんですよ。女子トイレって書いてあって入ったら、男子トイレの便器がばーって並んでて、きゃー男のトイレ入っちゃったと思って出たらやっぱり女子トイレって書いてあるんですよね。本当にそれだけ女の子がいなくて、事務の女の人が使うトイレの方を使わせてもらっていました。その辺歩いても、私達の頃の面影が全然無くて、本当に綺麗な大学になったなあって、びっくりしました。
<大学生活:大学農場での実習>
私は、大学入ったら、農場に通ってとにかく乳搾りしたいっていう風に思っていました。とわの森三愛のテニスコートの上に、家畜管理の牛舎がありますが、当時はそこが大学農場だったんです。それから、あの牛の絵が大きく描いてあるところが短大の農場で、それからインテリジェント牛舎の所が機農高の牛舎だったんです。私は毎日5時に起きて、大学農場に搾乳をしたくて行きました。でも、始めは糞出しばっかりでした。今は、糞はバンクリーナーで運ばれるけど、昔は全部あれをスコップで掻いて一輪車で運んでたんです。今でもそういう風にやってる酪農家はたくさんあるんですけど、私は糞出し作業ばっかりさせられていました。でも、それがすごく嫌だとは思わなかったんです。すごく楽しくって、ほうきで掃いたりとか、そういう作業が楽しかったんです。
でも一つだけ嫌な事があって、皆さんの中できっと後継ぎの方いらっしゃると思うけど、後継ぎの方に「東京から来て、憧れてそんなこと出来るわけないべやー」って、北海道弁丸出しで言われたんです。もうそれが悔しくて悔しくて、絶対負けてたまるかと思ったんです。そういうこと言われたのが、発憤材料だったのかなとも思うんだけど、夏休みも頑張って毎日通いました。その反面、1講目2講目は結構よだれを垂らして寝てました。
<大学生活:農家実習>
そして、夏休みになってやりたいことがあったのですが、それは農家の実習に行くことだったんです。それで、手塩の酪農家に行ったんですけど、とにかく辛かったですね。もう辛いという一言に尽きました。今考えるとたいした仕事はしてないんだけれど、朝毎日義務的に起きて、そして全部手仕事でしたので、指が開かなくなって、すごく大変でした。でも、仕事自体が嫌だっていうことよりも、農家の生活と、今まで私が経験してきた都会の生活がとの違いに、カルチャーショックを受けたのが一番大きかったです。今農家に行くと車もたくさん持ってるし、家もすごく綺麗だし、ほとんど都会と変わらないっていう感じがするんですけど、その頃はすごく差を感じました。農家って毎日同じものを食べて、漬物とご飯で、それも時間に追われてかきこんでっていう、そういうイメージでした。
私は一番初めに行った時に、農家のおじさんに何日いるのかい?って聞かれたので、30日ありますって言っちゃったんです。だから、絶対30日やらなきゃなんないと思って、最後の10日ぐらいは指折り数えて、あと10日、あと9日という感じで、辛いなあと思いながら頑張り終えたんです。そういう風にやり終えたってことは、やっぱり達成感があって、後につながっていったかなという風に思っています。それから、2年3年と、あっちの牧場こっちの牧場と、行ったりしたんです。
<大学生活:結婚>
酪農学園大学来たもう一つの目的は、酪農家の息子さんとうまくめぐりあって牧場をやることだったんです。200人中4人だから、男の子にはモテモテでした。でも、声を掛けてくれるのは都会の男の子ばっかりで、農家の息子さんからは声が掛からなくて、残念に思ってたんです。それでも将来はやりたいなと思ってた時に、主人に出会いました。主人は、私が大学の3年の時に、大学農場の職員として入ってきたんです。それで、大学3年の時に結婚することになりました。できちゃった結婚ではなくて、カップルになってないと就農したい時に、なかなか見つけられないよっていうアドバイスをもらったんので、早々に結婚しました。
<入植探し>
当時は本当に何にも話が無かったんですよね。特に昭和50年頃の日本ていうのは、右肩上がりで、離農が当たり前で就農するなんてとんでもないとういう時代でした。だから、どこに自分の思いのたけを言っていいのかわからないのが現実でした。今では建売住宅のように選んでいて、うらやましいって思います。自分が実習に行った所とか、主人が実習に行った所とか、そういうつてを頼って行ったんですが、全然無くて、どうしようかって言っていました。そうした矢先に、白滝村を離農してきたという人と出会って、そんなにやりたいんだったら紹介してあげるという風なことを言っていただきました。それで、農協と役場に、若くてやりたいという人をほっといていいのかって言って頂いて、白滝村という所に行きました。
当然私達はもう、ぽっと行ったら、もうすぐ酪農をさせてもらえるんだろうと思って行ったら、とんでもなかったです。やっぱり、1年間なり実習していただかないと駄目です。まあ、それは今考えると当然だと思うんですね。でも私達にしてみれば、また実習すんのっていうような感じだったんです。でもそれをしないことには前に進めないので、白滝村で実習をしました。私は卒業式の時にはお腹に長男が入っていたものですから、その足で実家に帰りまして、東京で出産をして、10月に白滝村に戻って来たんです。しかし白滝村って江別よりかなり北にありますから、10月っていうと雪が降るんですよね。それで、帰ってきたらストーブも用意してなくて、大喧嘩しました。慣れない育児と、それから死にそうなぼろぼろの寒い家と、吹きすさむブリザードがあり、本当に本当にやりきれない1年間でした。
また、とても田舎なので、うちにたまに来るのは郵便屋さんだけでした。郵便屋さんは新聞も持ってきて、朝刊と夕刊を中間に持ってくるんです。そういう、本当に田舎ならではのシステムがありました。本当に今振り返ると、実習をしてた1年間がすごく長く思います。あっという間の30年の、その30分の1なんですけど、その1年が何か半分ぐらいのような感じがしますね。それで、冬になって、雪が降って土地の様子もわからないし、私達は本当に出来るんだろうかって思って、荷物もとかないで、このままどっかに引っ越そうかっていう風に思っていたんですね。でも、それを聞きつけていた方がいて、お前ら本当に農業やりたいのかと言われて、やりたいといいました。酪農やったら1日も休み無いぞとか脅されて、はい、わかってますっていいました。じゃあっていうことで、今すんでいる所なんですが、そこの土地を30haとそれからぼろぼろの家とぼろぼろの牛舎を、約2,000万で買い取ることになりました。それが昭和51年3月です。
<酪農を始めて>
酪農を始めたのが昭和52年なんですが、その後生産調整っていうのがありまして、牛乳を思うように搾れなくなってしまったんです。それで始めたのが和牛です。しかし、その和牛がヨーネ病を持ってきてしまいまして、うちのホルスタインに移りました。今はヨーネ病が多くなって、1年おきに検査するようにはなってきているんですが、当時は、ヨーネ病が今のBSE ぐらいの感じで、腫れ物に触る感じの病気だったんです。その時には平均1万kg ぐらい搾っていて、うちに合った牛群作りっていうのをやってたんですが、ヨーネ病は自家繁殖が出来ない、要するにメスとして残したらいけないので、牛を残すことが出来なくなっちゃったんです。それで全部和牛の種をつけてF1として肉として出荷することにしました。でも、買ってくる牛は皆乳量が出ないんです。農家が売るような牛だから出るはずが無いわけで、乳量がにどんどん落ちて、経営は悪くなってしまいました。
それで、昭和63年に豚の方に取り組みました。自分が食べていた美味しい豚、ソーセージやハムなどを、お客さんに売りたいと考えたのもありますが、農業を知らない人に、ただ私農業やってんのよって言ってもわかんないから、そういうアピールの仕方っていうのが一番わかってもらえるんじゃないかと考えたんです。このハムソーセージの販売額が年間600万くらいあったんです。そのため、経営が悪くなっても何とか赤字を出さずにぎりぎりでやっていました。
そして今の牛乳をもっと高く売ることは出来ないのか、ということを模索した時に、牛乳を利用してソフトクリームをやろうじゃないかということになりました。色んな講習会に行くと、よくピンチがチャンスだよって言われるんですが、今振り返ってみると、ほんとに、崖っぷちに立たされた時に、アイディアって出るもんなんだなって思うんです。
そして、ハムの方ではとんでんファームの松山さんにお世話になったんですが、ソフトクリームの方は、ノースプレインファームの大黒さんにご指導いただきまして、工場の設立をすることが出来ました。これらの経験から、自分がやってきたことは、なかなか思うようにならないけど、その時その時を一生懸命生きてくると、次があるんだと思いました。
<家族の紹介>
長男は結婚しまして、今東京でホテルの仕事をしながら、将来はうちのソフトクリームの販売を継ぎたいと言っています。長女は、獣医になるって言ってたんですが、英語がすごく好きだったものですから、高校3年からアメリカに留学しまして、イギリスにも1年間行ったんですが、全部で8年間留学して、向こうの大学を卒業して、美術の方に進みました。今は金沢工芸大学の大学院に行ってます。次女は、大学4年の方と同じ年なんですけど、獣医をになりたくて2年間浪人したんですが、今は麻布獣医の動物応用学科に行ってます。将来酪農を継ぎたいって言ってるのは、末っ子です。
<自分に合った経営が大切>
出田さんと知り合ったのは、昭和52年、出田さんが入植をなさった直後だったんです。出田さんと知り合って意気投合して、事あるごとにお電話をして相談したりしている仲なんです。出田さんが牛舎無しでやっていて、主人がどうしてもそういうやり方をやりたいと言い出して、うちでも挑戦しました。ところが雪が多く、また出田さんが使っていたでんぷん粕などは、うちが買うと3倍から4倍ぐらいの値段になってしまうなど、色んな状況があって、止めました。
それから、子供さんと食事をしてから搾乳をして、夜も子供さんと食事をしてから搾乳をするって聞いて、うちもそれを挑戦しました。でも、主人が大酒飲みで、昼間から畑作農家の方々と飲んで、搾乳はまだ夜9時からだからいいって言って帰ってこなかったので、私は怒りに心頭したんです。私は子供を出すために6時ぐらいに起きなきゃなんないのに、搾乳は夜中の12時を過ぎることも増えてきて、1年間で止めることになりました。
経営のやり方っていうのは真似では駄目だということなんですね。やっぱり土地環境や家庭環境に合うもので進めていかなくちゃいけないなっていうことがわかったんです。
<生産現場を知らない消費者>
皆さんは絶対そういうことは無いと思うんですが、世の中には、ホルスタインなら雄でも乳が出ると思っている人がたくさんいるんです。そんなことを聞くと、本当に私もびっくりしちゃうんですけども、そんなことを知らなくても、スーパーに行ってお金を出せば牛乳は買えるわけですよね。だから今、消費者と生産者とは完全に離れてしまっていると思います。去年このコースで広瀬さんのお話も聞いた方もいると思うんですけど、広瀬さんの話によれば、見学に来た子供が牛舎で「ねえねえおじさん、牛にさ、コーヒー飲ませたらコーヒー牛乳になるんでしょ。」って言ったっていうんですね。それで慌てて、搾乳を見れるような牛舎を作ったんだって聞いたんですけど。本当にそういう、笑えないぐらい、生産現場を知らない状況になっている気がします。
私は、お客さんに、牛乳っていうのは血の百滴ですよっていうんです。結構皆さん知らないんですよね。血乳って出るじゃないですか。あれは血が、牛乳になりきれずに血として出ちゃうわけでしょ。だから、牛乳ってのは、血の百滴ですよ。それくらい命を削ってるんですよっていうことを皆さんにわかってもらいたいなっていう風に思ってるんです。そして、それを語れるのは農業者だけだし、食べる人は、そういうことを厳粛に受け止めてもらいたいっていう風に思ってるんですよ。
それから、皆さん屠殺場の見学なんかは行ったことありますか? 屠殺場っていう言葉も実は今使っちゃ駄目なんですね。私は、屠殺場っていう言葉を使おうと思って北海道新聞社に原稿送ったら、使っちゃ駄目って言われたんですね。それは畜産処理場にしなさいという風に言われたんですけど、それぐらい日本というのは、臭いものには蓋なんですよ。結局食べ物っていうのは、その豚なり牛なり、命が私たちの体の中に血となり肉となり、で生きてるんだっていう風に、そういう一番肝心な所を、ちょっとベールをかぶしちゃって見えなくして、綺麗なもの、そういう風な売り方しか駄目だという風になっているような気がするんです。私はやっぱりもっとそういう所には、目を向けて、命を頂いてるっていうのを知ってもらいたいな という風に思います。
<豚>
うちは牛屋なんですが、豚のほうで話が出るようになったので、豚だけだと思ってる人が多かったんです。豚は放牧で飼ってます。天皇陛下が召し上がる豚肉は全部放牧豚の御領牧場っていうところで飼われているそうなんですが、今はすごくもてはやされていますけども、放牧にした理由は、単に豚舎が無かったってだけなんです。そして、春先に豚を買うと、見学に来られた方は「冬大変ですね、豚さん寒いでしょうね」って言うから、「いえいえ、美味しいハム・ソーセージになって皆さんのお腹に納まります」って言うと、はーって言うんです。本当にそういう風な方ってたくさんいます。
そして、うちに来る前は、狭い豚舎で飼われていてた豚たちですから、初めは全然動けないんです。でもやっぱり好奇心がありますから、どんどん広いところに走ってくんです。そうすると、耳をパタパタさせて、にこにこ笑って本当に幸せいっぱいのような状態で、歩き回るようになります。そして、豚は草ぼうぼうだったような所を全部食べて、鼻で土を掘ります。だから、背中の筋肉が発達して、ロースが美味しくなるんです。
しかし、一昨年は熊に豚が食われました。自然と背中合わせで暮らしていますから、そういう事故というのは限りなくあるんです。
豚を買ってくる時は、生後5ヶ月ぐらいで、離乳もすっかり終わって、外で飼っても大丈夫なくらいに持ってきます。で、売るときは、100kg ぐらいです。普通の養豚農家さんは、5ヶ月半でそれを目指そうと思って、日夜努力を続けています。それから色んな試験場なんかでは、どういう餌をやり、この品種だったら1日でも早くなるという研究をしているんです。1日かけるってことは、その分労働力、餌代がダブルパンチでくるわけでしょ。だから、いかに早く大きくし て肉にして出すかっていう所に、集中して研究がなされているんです。
ところがそこに相反してこういう飼い方をして、8ヶ月かかりますなんていうと、養豚農家さんに言わせたらえーっ見みたいな感じに言われちゃうんですけど、私はやっぱり豚は豚の、ある程度の肥育期間、大人になっていくそういう時が美味しいと思うんです。皆さんが美味しい美味しいって食べてるのは、デブの子豚とか、デブのひよこって私言うんですけど、結局体ばっかり大きくなっちゃても、細胞っていうものはちっとも大きくなっていないわけで、やはり成長したきちっとした豚、鶏、牛っていうものの本来の味とか質とかで、本来の味が味わえるんじゃないかと思います。
これは出荷の日なんですけど、豚は、本当に生まれたときからキーって叫ぶような声を出すし、こうやって乗せるときも、キーっていう声を聞きながら、乗せるんです。屠殺場行きってことがわかってるのかはわかりませんが、心が苦しい思いで出荷をするんです。
それで、変身して帰ってくるわけですね。これがスーパーに並べばもう本当に商品ですよね。でも、この後ろに、豚の顔が見えたら、私その人本物だなっていう風に思うです。よく、お歳暮なんかに貰った人から夏に電話掛かってきて、お宅のベーコンがとっても美味しかったので分けてくださいってお電話くるんです。そうすると、すいません、今ね、豚外走ってるんですよねって言うと、えって言われます。ベーコンは豚のバラ肉から作られるっていうのはよーくわかってるんだけど、走っている豚と一致しないんです。さっきも言ったように生産現場がわからないってそういう感じだと思うんですね。
これは、初めて、自分で作ったハム・ソーセージを持ってデパートに行った時です。これ札幌のそごうデパートです。そこで初めて、対面販売をしました。15年前なんですが、その頃ちょうど添加物の問題とか出た頃でした。添加物は無いっていうことは裏ラベルで見れば分かるんですけれど、私は、この使われている原料肉は私が育てました。私が育てた豚や牛、鶏の肉を使ってるんですよって言って売ったんです。ところが、15年前はまだそれは理解されませんでしたね。そういうこと言うと、あらかわいそうとかって言われて、この人変じゃないのって感じで言われちゃったんです。でも15年経った今、どうですか? スーパーに行ってみたら、私が育てました、私が作りましたって、写真入りで出てるじゃないですか。だから、やってきた方向性は間違っていなかったんだ、という風に自負しています。
<ソフトクリーム>
これがソフトクリームの工場です。約1,200万かけて工場を建てました。建てたと言っても、今まで乾草のロールが入ってた所を改造して造ったんですけど、牛乳缶で運んできて、牛乳を工場の中で殺菌したりして作ります。そして、秘伝の粉をぱらぱらとふります。これはお教えする訳にはいきません、っているものです。このソフトクリームは、約全国の35店舗、レストランや日帰り温泉、ホテルなどで販売しています。そして、東京の浅草にまるごと北海道っていって、北海道の物産を扱っている所があるんですが、そこで使われるようになりました。あと、デパートの北海道物産展っていうのがあるんですけれど、そういう所に出させていただいて、売ることもあります。この間も、梅田の阪急という所で一週間売って来たんですが、この梅田の阪急で一番売れる物産展が北海道物産展だそうです。第2位が沖縄物産展、それから第3位が京都物産展だそうです。北海道物産展の中でも、日本一と言われるのが大阪の梅田だそうで、噂に聞いてたんです。で、あそこに行かなきゃ駄目だよって、仲間内ではそういう話があるんだけれども、それを、向こうからお誘いがなきゃ来れない訳で、去年の12月、初めて行ってきました。そして今回、5月の連休後に行ってきたんですが、このソフトクリームが、1日2,700本売れるんですよ。10時開店したと同時に50mくらい並ぶんですよね。それはうちだけじゃなくて他の店も皆そうで、2時間待ち3時間待ちで、お客さん並んでくれるんです。労働だけはものすごい大変ですけど、食べた瞬間に、あっ、美味しいって言ってくれた時の快感たるやね、やっぱり、言葉では表せないものがあります。
<田舎じゃなきゃ出来ないこと>
私が都会を捨てて、この田舎にやってきて、田舎じゃなきゃ出来ないことってたくさんあると思うんですね。だけど、田舎に元々住んでた人っていうのは、田舎だから出来ないのよとかそういう悪いことばっかり言って、いい所って見えない。だから、私はこんなこと出来るのよっていうことで、スライド作ってきたんです。
うちは馬もいるんですけど、これは娘の誕生日にプレゼントしたものです。何がほしいって言ったら馬が欲しいって言ったんですね。都会では考えられないでしょ。だけど、馬、はい、飼っちゃえ、牛の餌くすねて飼えばいいよみたいな感じで飼ったんです。
それから、カヌーを作ってもらって、山の上の池に運んで、遊びました。これで遊ぶっていうのは、中々出来ないですけど、こういうことも出来きます。
それから、うちは実習生が50人以上入っていて、外人の方も3人程入りました。たまたま英語圏だったっていうことで、うちの長女が英語に大変興味を持ったっていうことなんですが、カナダの方なで、いながらにして英会話教室という感じでした。農業してるとなかなか出て行くことが出来ないんで、来てもらって色んな話をするっていうのはすごくいいんじゃないかなと思います。
これはバーベキューをしている所なんですが、うちは牛を屠殺してもらって、戻してもらって加工するんですけど、その時に切れ肉が出てしまうんです。ひれステーキなんてホテルに行ったら2万円とかであるでしょ。なのに、そのヒレの部分が、どうしても商品にならないんです。だから、全部持って帰ってきて、それを使ってお料理してます。カレーでもヒレなんです。お客さんきたらヒレをぼんぼんって切って焼いて出したら本当に大喜びなんですよね。もちろん野菜はそこのハウスで採ってきてっていう感じです。
<トゥリリアム・オカダファームの設立>
ちょっと時間が無くなってきちゃったんですけど、アイスクリームを食べながら聞いてください。このソフトクリームを作った時、平成8年だったんですけど、平成8年の時に会社も立ち上げました。それで、牧場とは別に、ハム・ソーセージの販売とソフトクリームの製造販売の業務を、有限会社トゥリリアム・オカダファームと言って会社を立ち上げて、そこですることにしました。
どうしてそういうことをしたかっていうと、農業は1年でやっと結果が見えるという感じですよね。そして、やり直しがきかないっていうのが結構負担だと思うんですよ。でも、加工・販売の方は、一週間で結果が出るんです。例えばデパートに行って、売り上げが無ければ、じゃあどうするか、っていう風になります。だから、別のことを一緒にしていいのかなと思ったので、分けました。ただ、どちらの経営も同じ人間がやってるわけですから、お客様に対しての売りは、農業者がやって、そのものをきちっとアピールして正しい情報を伝えるということ
皆さん今召し上がっていらしてるこのアイスクリームは、ソフトクリームを固めたものなんです。皆さんに食べていただこうと思って、金曜日に私、夜徹してで作ってきました。全部手作りです。そして、そのラベルも、色々検討して作りましたし、蓋は、サイロをイメージして作りました。そういう思い入れっていうのは、中々伝わらないとは思うんだけど、そういうことを売りながら言えるっていうのは、農業者しかいないんじゃないかなという風に思います。
また、開発も必要なわけで、新しいもの作るっていうのは大変なことです。このモーモーソフト作るのも2年間かかりました。モニター制をして、意見を書いてもらって、そして商品化、そういうことをしています。そして、商業となってきたわけですから、お客様には責任をもたなくちゃいけませんし、本当に色んなことがあります。ゴミが入ってたとか、そういうことだけでもクレームがつきますから、中々厳しいです。そして、私なりのこだわりは、有名なブランドものじゃなくて、お客さんにとってのブランドになりたいと思います。そして、お客さんを裏切らないで、正しいことを伝えていくという風なことが出来れば一番いいんじゃないかなという風に思ってます。
<就農するにあたって、学生中にした方が良いこと>
皆さん、この中で、ご両親からお金を送っていただいたり、それから奨学金をもらったりして色々、生活をしていると思うんですけど、お小遣帳つけている人いますか? はい、手を挙げて。あ、結構いるね。うん。すごく偉いと思います。あの、実は、皆さんこれから経営者になろうという時にですね、お小遣帳が原点です。お小遣帳から家計簿、それから経営簿と進んでいって欲しいんです。まず書き取ることです。まとめなくてもいいです。今日いくら使った。残高合わなくてもいいと思います。それを毎日つけるっていうことがすごく大変なこと。それから、今度は仕分けをする。例えば食費いくら掛かったとかそれでいいんですけど。それが今度経営の仕分けにかかってくると思うんですね。で、仕分けっていうのが出来れば、経営の80%出来たと思ってください。ですから、今日からでもいいですから、経営をやろうと思っている人はお小遣帳つけてください。私は、うちに来る実習生には、必ずお小遣い帳つけてるか聞くんです。つけている人本当にいないです。つけなさいって言ってもつけないんです。わかんなくなっちゃったって言って止めちゃいます。わかんなくなっちゃたら止めてもいいからまた今日からやってください。それが一番大基本だと思います。
それから、日記つけてる人いますか? あ、意外と少ないね。日記ね、自分の感情うんぬんっていうのはそれはそれで書いてもいいんだけど、特に実習これから行った人、作業別でもいいですからつけてください。どうしてかというと、去年何をやったかっていうの意外とわかんないんですよね。一昨年どうだったか、農業始めると、天気、作業いつ始めたか、すごく重要なんです。でその作業の時、何をしたかっていうこと以外に、こういう風にしとけば良かったなっていうことを書いておけば、ものすごく、役に立っていくと思います。それを是非是非、実行してください。
それから、これから実習したりとか、どっかお勤めしたりとかあると思うんですけど、自分の決めたことは必ずやり遂げてください。例えば実習は、3日間って決めたら3日間でもいいと思うの。とにかく自分の決めたことをやり遂げて、自分が決めたことに不満を言わないということを心がけてください。割と皆、不満を言って止めちゃうしょ。そうじゃなくてね、やっぱり、自分の決めたことは自分で責任を持ってやり遂げてください。人のせいにしない。それが、やり遂げられる一つのやり方だと思います。
それからもう一つは、新規就農したいと思っている方に、実習はしない方がいいです。学生のうちの実習はいいとしても、社会に出て実習を3年やってからとか5年やってからとか思っている方きっといると思います。悪いことではないんですが、それは常に親方の傘の下の出来事です。自分が経営者になると全然違う矢が一杯飛んできます。実習中に飛んでくる矢は全然違いますから、そういうことを考えて、なるべくすぐに入ってください。そういう風に思います。
(質問)アイスありがとうございます。鶏は豚や牛を同じ敷地内で飼っているじゃないですか。鶏はあんまり良くない病気とか持ってるいることが多いらしくて、何か衛生上で気をつけていることはありますか?
(回答)羊を飼っている時に、獣医さんに、羊から牛にうつると大変な病気があるよと言われて、今思うとBSEだったのかなと思うんですけど、そのとき羊はやめたんです。でも、ほとんど混ぜる場所は無いです。例えば、鶏のあとに牛が来るとかは無いので、特に気をつけてることはないです。ただ、豚が逃げて、牧草地を歩いていることはあるんですけども。
やっぱり、昔ながらの農業生活に憧れているんですね。だから、牛舎の隅に豚がいて、牛舎の中には鶏が歩いていてっていうのがいいのかなって思っています。それが衛生上悪いのかもしれないですけど。でも、そういう雑菌さえも超えるようなものになりたいなという風に思っています。今は、あまりにも雑菌などを嫌いすぎていると思います。私は、落ちたもの食ったって平気だよって思うんですが、皆さんはどうでしょうか。
酪農支援の取り組み
 
<自己紹介>
今ご紹介いただきました、鹿追農協の常務をやっています。自分には全然合わない仕事だなぁと思って、できれば、現場に出る仕事を続けたいというふうに思っておりますけど、結果的に現職の仕事をしています。まず最初に私の自己紹介をさせていただきます。私は、鹿追の農家の次男坊で生まれました。高校は帯広の三条高校を補修を二科目くらい受けてやっと卒業しました。大学には行く状況にはなかったので、そのまま、行くところなくて、実家の農家に帰って、農家の手伝いを4年ほどしました。
結構家の手伝いは小学校のころから中学校くらいまではしたんですけど、高校で帯広に出てからは、ほとんど出たっきり家に帰ることはなかったので、手伝いはほとんどしませんでした。ですから、卒業後の4年間は、牛のことやなんかもほとんどわからないままで、発情が何日の周期で来るかっていうのもほとんど覚えない状態でした。親父とおふくろと兄貴のてこに使われてました。ただ、親父と常に意見が合わなくて、三度三度の飯を食うたびに喧嘩をしておりました。もう家には居れなくなったところを、今の組合長の前の前の組合長に拾われて、農協の仮試験を受けて、一応入らせてもらって農協職員をスタートしたというのが実態であります。農協に入ってから二年間、融資の仕事をやって、そのあとはずっと畜産の仕事、特に酪農関係の農家の現場に出てアドバイスする仕事をしてきました。
<農協職員と農家との関係>
先ほど申したように4年間家で農家をやってって、最後そのものはどんなものかっていうことはわかってたんですけど、理屈についてはほとんどわからなくて、農協でこの畜産のアドバイスの仕事を担当してから、逆に現場から教えてもらったり、教本などで勉強して覚えてきたということです。管理職になるまでは現場でアドバイスをしていたんですけど、自分としては決して、農家に指導するとか教えるという気持ちは基本的に毛頭ございませんでした。農業の場合はみなさんがここでいくら勉強したとしても、実践でいい経営をやってる人にはおそらくかなわないでしょう。経営そのものはやっぱりかなわないんじゃないかと思います。そういう面では、農家にアドバイスをしながら、結局は農家から教えていただいたわけで、その内容を農家に帰していく、または、農家と一緒になって新しい技術を取り組むことによって、農家の経営改善をしていくような流れできました。農家と農協職員の関係は本当に、お互い支えあって、教えられる立場で仕事ができることが、農協職員、と組合員との関係として は一番望ましい姿かなと思っております。今後もその基本は変わらないんじゃないかなと思っております。
<鹿追の農業の概況>
それで、鹿追の、まず酪農の関係につきましては、鹿追の人口は6,000人くらいしかいなくて、はっきり申し上げて、農業しかない町であります。それ以外にあるとするなら自衛隊があるだけで、他の産業はまったくなく、純然たる農村地帯であります。そういう中で、過去には農協が、30年前ぐらいに、5,000万円くらいの赤字を出して、農協をつぶすかどうするかというところまでいったんですけど、それを乗り越えて今に至っております。鹿追については、30年前ごろは十勝の中でも下から数えたほうが早いくらい経営は悪かったわけですが。今言ったような前向きな取り組みによって、現在に至っているということです。
<鹿追の農業の概況>
<最近10年間の農業生産>
最近の十年間の農業生産をここで見ていただきますと、畑作と酪農含めますと150億円という16年の実績になっております。畜産では96億円、農産では54億円ということでありまして、鹿追の場合は畑作、酪農、半々ぐらいなんですけど、ほとんどが専業化されております。天候にも恵まれまして農業生産伸びておりますが、それより以前については、天候の関係、それから農業技術の一時的な停滞もございまして、あまり伸びてなかったわけですけど、天候なり、技術の取り組みによって近年ある程度改善しまして、150億円まで伸びているというような状況になっています。畜産のほうの関係ですが、牛乳は91,000t ほど出しております。それに付随して、初生犢の肥育というふうになりますが、肥育についても鹿追牛ということでブランド化して出荷しておりますが、とくにあのBSE の発生以降、鹿追で生まれた子牛を最後まで鹿追で肥育するという、トレサビリティーがはっきりした牛ということで、府県でも鹿追牛のブランドで上げていただいて いるという状況です。農家の経営状況ですが、酪農については年々出荷乳量が伸びておりまして、この酪農専業農家の115戸で16年の実績としては平均が752tで、農業収入としては7,100万円程度になっております。農業所得は減価償却前ということで乳牛・機械当の、建物当の償却を引く前の金額で1,840万円になっております。1戸当たり、おおむねですけど、償却費が500万円から600万円ぐらいあると思われますので、一戸当たりの純然たる所得は1,300万円程度になるんではないかと思っております。ただその前の年が2,000万円ありましたけど、16年に1,840万円まで落ちこんでおりますのは、農業収入としては大きく伸びているわけですが所得が下がったのは、乳価が1円50銭くらい下がったということで、所得が落ち込んでおります。その他は個体販売が若干悪かったというのもございます。
<施設化・高泌乳化と所得率>
そういう面では、これからの酪農がコスト低減をしなきゃならないという中で、特に大型化した施設投資した農家ほど、鹿追の実態としても、所得率としては低い状態にあります。所得額は大きいんですけど、所得率は施設投資した方のほうが低いということで、乳価が下がれば下がるほど大規模の施設投資した方のほうが、経営に与える影響が大きい状況になっております。一頭当たり乳量ですが、現在は8,500kg台の乳量になっておりまして、鹿追としては一時大きく伸びたんですけど、そのあと停滞気味で、ここに来て若干伸びてるというような状況です。あとは濃厚飼料、購入飼料で生産を上げるというパターンできてるわけですが、この停滞しているころについては、疾病の問題なんかもありまして、極力土作りをして粗飼料の品質向上を図って、病気を少なくしていこうとしています。あとからもでてきますけど、必ずしも乳量をたくさん搾れば儲かるという実態にはなっていません。鹿追の実態の中でも10,000kg 搾っている人が必ずしも儲かっているかといったらそうではなく、やはり8,000kg、7,000kg でもコストをかけてない、結局、えさ代にかかる購入飼料の割り合いが少ない方については、所得が高いという傾向になっております。
<飼料生産>
飼料作物の数字としても、平成16年については全体で6,200ha程度になっておりまして、そのうち1,500haがコーンで、4,600haが草地ということになります。全体的には、乳牛頭数はずっと微増できてるわけですが、飼料畑については、面積は横ばい状態になっております。それでいて、購入飼料が増えてるかというと、現状の中では購入飼料は増えておりませんで、天候の関係もあるんではないかと思いますけど、粗飼料の生産性があがっているという状況はあると思っております。去年でコーンが乾物で10aあたり1.5t ぐらい取れますし、牧草でも1t を若干切るという状況で、価格から見ますと、かなり、反当り収量が乾物ベース、エネルギーベースでも上がっているというふうに見ております。
<畑作と酪農>
それとこれが、鹿追町の下の方、畑作酪農の専業化の戸数です。先ほど言いましたように、平成16年で畑作が専業131戸、酪専が115戸です。肉牛だとか豚だとか鶏も少しあります。複合経営は本当に限られた戸数しかなく、ほとんどが畑作専業と酪農専業です。過去10年の流れでは、このマイナスしたのは、離農された戸数ですが、過去には一年に10戸前後、もしくはそれ以上が離農して減ってきてるという状況にはありますが、ここ2、3年の状況では一年に1〜2戸の方が離農するということです。経済的な面で経営が成り立たないというよりは、後継者がおられなくて、最終的に勇退をしていくという方がこの1〜2戸の中に含まれております。鹿追の特徴としては、比率で出してあるんですけど、畑作専業と酪農専業の比率が、畑作が常に50%をキープして、残り酪農ということで、畑酪混同地帯ということになってますが、これが鹿追の農業の循環というか、畑作と酪農がお互いに、交換耕作をするとか、堆肥を酪農から畑作の畑に入れるとか、畑作から小麦わらをもらうとかっていうことで、お互いに良いとこを協力し合って、経営改善ができるというのが鹿追の特徴であります。交換耕作というのは酪農家の畑に畑作農家のビートだとか馬鈴薯だとか、そういうものを撒き付けして、酪農家の牧草・トウモロコシを畑作の農家に撒くことによって、偏りをなくしています。雑草の管理はどちらかというと酪農家より畑作農家の方がうまくできるんで、雑草処理ができる。反対に、地力としては酪農家の畑の方が堆肥がたくさん入って、地力ができているとことで、それを交換することによって、畑作の単収が上がるというようなメリットがでてきております。あとこれは、個別の一戸あたりの面積です。鹿追は今、酪農家で43ha程度の面積になっておりまして、草地とコーンが30ha、12haという割合で作付けされております。
<牛の廃用頭数>
これは、牛の廃用頭数なり廃用割合を書いてございます。16年で言えば18,000頭というのが、鹿追町の乳用牛全頭の頭数です。2,269頭というのが死亡牛なり、病畜としてレンタリングに出される頭数でありまして、特に、上の表でいくと、初生犢が年間だいたい1万頭程度出生する中で、1,300頭ほど死廃ででていくということで、13%ほどの死亡率があるということです。鹿追だけじゃなくて、今の酪農家の管理の中では事故率が非常に高い状況になっています。過去は親牛の廃用牛も含めて13%台、いわゆる14%に近づいたときがありまして、これをいかに少なくするかということで、少しずつ子牛の管理ですとか、分娩時の管理とかの改善をしまして、徐々に今下がりつつあるんですけど、去年は暑さの関係もあって、上がっているという状況になっております。よく酪農家が言うのは、牛飼いをしていて、乳房炎と牛の病気がなかったらこんな楽な商売はないというくらいに、牛の病気、乳房炎が農家にとって大きな痛手になります。特に、治療をする、点滴をするなんてことになりますと、そのとき 人間がついていますから、牛が100頭200頭になったときに、そういう対応をする時間が、病気が多いと非常に時間ロスになっていくというのが実態です。
<コントラクタ事業>
鹿追農業で他の農協と比べて大きく取り組んでいるのは、コントラクタ事業です。作業受委託事業というふうに言ってますけど、平成5年から取り組みを始めまして、一番草、二番草、三番草、四番草、コーン、全て合わせて今5,170haぐらいの面積を収穫していますが、それ以外に、播種ですとか耕起だとかいろいろありますが、収穫作業としてはこのような大きな面積になっております。これは鹿追町全体に対してどれぐらいの割合かといいますと、トウモロコシは1,544haのうち773haがコントラクタが収穫しておりまして、やや、半分。牧草については、一番草だけ見ますと4,655haのうち1,894haで約40%の収穫をコントラクタが行っています。この取り組みはなぜ農協として行ったかといいますと、一時、乳価が100円くらいしていましたけど、今は70円くらいまで、北海道の乳価は下がってきております。ということは、30円下がっても、今酪農経営がやれてるということは、コスト低減ということもありますけど、一つは牛の頭数を倍ぐらい飼ってるから逆にやれてるという面がありまして、そういう面では、酪農家は機械化はされましたけど、労働力、手間という点では非常に忙しい状況のときがありました。特にそれが、収穫時期には、通常は牛の管理だけしていればいいんですけど、種を撒くだとか、収穫する時期はどうしても普通より忙しくなりますから、この忙しさを緩和することによって牛の管理を向上することができるんではないかと。さらには生産性を向上することができるんじゃないかということで、コントラクタ事業を取り組みました。結果的には、相対的にみますとコントラクタ事業やることによって、農家の規模拡大がスムーズに進んだというふうに評価ができると思っております。反面、全員がコントラクタ事業に乗ったことのメリットがあったかというと、規模拡大したり、一頭当たり乳量があがった人は効果がありましたけど、コントラクタ事業を頼んで乳量も増えない、頭数も増えない、仕事だけ楽になったという人は、金だけ余分にかかりましたから、所得は減って経営は厳しくなったという人も、中には、一部いまして、やっぱり反省点と思っております。先ほど言いました交換耕作の面積は、10,000ha以上ある面積の中の560haぐらいですから、たいした面積ではありませんが、畑作、酪農が混在している中で、個々の農家が協調し合って取り組むという意味では非常にいい事業だということで取り組んでおりますし、その成果も上がっている状況にあります。
<農協の役割>
先ほどの最初の話にありましたように、農協が果たす役割というのは何かっていうのは、生産物を売ったり、それから農家が使う資材を買ったりというか、農家に供給するという形になってますけど、一番の目的は何かっていうと、やっぱり経済的に農家が向上すること、さらには社会的、文化的な面も含めて、いかに向上していくかということに農協が取り組まなきゃならないと思っております。たくさん農家の生産物を売ったり、資材を供給するということは表て向きの目的であって、何を求めるかっていうのは最終的に農家の所得が上がる方法をどうするかということで考えていきます。
<農家データの整理・利用>
そういう中では、私も長年農家のアドバイスという仕事をやってきたんですけど、1戸の農家の経営についてアドバイスをしようと思ってもなかなかアドバイスするための情報を整理するのに時間がかかります。一軒の農家についてやろうと思ったら、まじめにやろうと思ったら、一日以上情報を集めるのに時間がかかるような状況がありました。それで、今はここにあるようなデータが、農家のクミカン番号と名前を入れたら自動的に実績やら実績が出てくるようになっています。例えば、この農場は、去年は一頭当たり9,372kgで、乳価は74円、乳飼比は32、飼料効果は2.3、年間の一頭当たりの飼料代は228,000円、1kg 当たり原価は54円、牧草の肥料代は4,700円、コーンは4,800円という形ででてきます。下に、鹿追の経営の良い人のパターンが全部で6つあります。パターン3っていうのは、作業受委託、さっき言ったコントラクタ事業の全面委託をやって、こういうふうに民間預託をしてない人のパターンで、経営成績の良い人の標準がここにでてきます。それに対する各比率がでてきまして、この農家はどこに問題があるかっていうことが基本的に、まず数字としてわかるようになっています。見た目でもわかりやすく、このチャートにしまして、例えば、年間一頭当たりの飼料代は良い人から見るとかなり、高いよ、というふうにアドバイスできます。乳量は高いんですけど、一頭当たりの飼料代はもう当然高い。1kg 当たりのコストはどちらがかかっているかというと、当然、乳量も高いですけどいくらかかっているというふうにでてきます。さらにコントラを利用して民間預託を利用していない22人の方の中では、それでも3番目の成績ですよとか、鹿追町全体の酪農家の124人中18番というような状況になっているということを理解していただけます。そのほか、鹿追の場合は販売、購買事業につきましても、農家の場合は95〜100%ぐらい利用いただいているということで、ほとんど農協を利用してくれています。農協以外で利用している部分というものが少ないですから、収入、支出が全て項目ごとに全て分類されるようになってまして、それによって、かかったコストの全てわかるようになっています。肥料についても、反当りなんぼ使ったかということが全部、一人一人のデータがすぐ出てくるようになっていますし、自給飼料生産のためにかかったコストがいくらかということもでてくるようになっています。今までは経営分析と言うとどうしても経済的な金額だけが表示されてくるようになっていましたけど、今回のシステムでは、ここが問題だよっていう数字があった場合には、それがどこに原因があるかっていうのを究明できるところまでのシステムを作って、農家にアドバイスをしています。このような形で経営分析なり、技術的な問題なりについて把握できるようになっています。
これまでは農業生産を去年が140億円なら今年は150億円だと、そういう考え方で農協も関係機関もきましたけど、今考えなきゃならないのは、手元に残るお金がいくらなのか、どれだけ働いた結果それが得られたのかという、本当に農家のためになる考え方で農協の指導事業っていうかアドバイス事業もしていかなきゃならないというふうに考えております。そういう中で一番大きく答えがでましたのは、一昨年から農協で肥料の配合工場を建てました。今までもあったんですけど、今までは鹿追の作物、てんさいならてんさい鹿追町平均の肥料として、1作物につき1つの肥料しかなかったんですけど、この工場が2年前にできてからは、鹿追町の約75%の畑の圃場ごとの土壌分析の結果に基づいて、適正な施肥をするための肥料を作ることができるようになりました。今までは20種類くらいの農協配合しかなかったんですけど、75%をクリアーするために70種類ぐらいの配合肥料を作りまして、そのほかに、残りの25%については、圃場ごとにこういう肥料が欲しいのならそれに合わせて作る肥料工場を建てることによって減肥ができるようになりまして、去年の実績だけで5,000万円くらいの肥料代のコスト減ができるようになりました。ですからその分農協の取り扱いは減りますけど、先ほども言いましたように農協は取り扱いを増やすことが目的ではなく、農家の経営改善を行うことが目的だということからすれば、なんら農協としては問題がないというふうに判断しております。使う側からみれば、わかりやすい反当り何kg あるのかっていうことで表してもらう方がよいと思います。今の大学や試験場の畜産、酪農、農業に関する技術っていうのは意外と、現実的には使いづらい面があるので、現場ではいろんな改善をしていかなきゃならないんじゃないかなと思っています。
<操作の例>
馬鈴薯だったらここをクリックしたら馬鈴薯で使う肥料が出てくるようになってます。それから選択していって施肥設計をしますけど、窒素だけは、現状の中では農家の方が地力をよくわかっているという判断をしておりまして、ここがよく取れる、去年の単収はどうだったかということを聞いて、それによって、この窒素量は例えば標準は4kg だけど、去年のできばえだとか、場合によっては2kg にするとかっていうことで、農家と相談しながら何kg 入れていくかってことは決めていきます。それ以外は、ここの設計基準は鹿追の独自の土壌分析に基づいて何kg と入れるかっていう基準を作っておりまして、道の基準からみますとかなり減肥するような形になっております。
<農協の合併について>
農協としての考え方としては、本当に、組合員のための事業展開をしていかなきゃいけないと思っていますから、別に、今合併、合併と北海道の中で中央会は農協が数少なくなって大きくなることを進めているようですけど、鹿追としては、合併することによって組合員にメリットがあるんであれば合併はしていきますけど、そうでなければ基本的には合併はする考え方はありません。十勝の中では特に、一緒にやれるのもがあれば取り組みをしていくということで、必ずしも、農協が合併しなくても、近隣農協で、五農協では馬鈴薯の販売を共同でやるという形で、農協が別々に存立しながら共同すことによってメリットが出せるものは共同していくというような考え方の中で、ネットワークという形で取り組みをしております。一番心配になるのは、組合員と農協の距離が合併することによって、届かなくなる。農協が一人歩きをしだすということが一番心配なことではないかなと思っています。その一番端的なのは全農でありまして、五回も問題を起こして、農水省からも解散しなきゃいけないんじゃないか、ぐらいなことを言われておりますが、それでも体質が変わらないというのは、やっぱり、組合員の声が伝わらない、組織だけが大きくなってしまったという、一つの大きな悪い例ではないかと思います。鹿追農協の取り組みは、事業計画を毎年組みますけど、それの基本となるのは47年以降毎年5年ごとに中長期計画を立てまして、それを基本に毎年小さな見直しをしながら目標めがけて、事業を推進しているという状況にあります。特に、うちの農協は、民主的というか職員がほとんど事業計画を立てます。立てたものを、順番に上の職員なり、専務・組合長がやるやらないということを判断していきます。そういう意味ではほとんど職員が立てたものがそのまま事業計画になっていくということで、普段、職員が組合員と如何にひざを交えて接して、何が必要か? どうして行かなければいけないか?などといったことを日頃の取り組みの中で拾い出して、それを事業計画にしていくという流れで進めています。そういう意味では本当に、職員としては、良く言えば、やりがいがある、悪く言えば大変だと言うことになりますけど、私としてはそういった中で非常に自分の思う取り組みがやらせてもらえたということでは非常によかったかなぁというふうに思っています。ですから、事業計画というのは役員との、良い意味では戦いみたいなもので、自分の思っていることをいかに役員に説得するかというのが、職員の本当に力量を問われるところであります。当たり前のことなんですけど、部門別独自採算性ということで、飼料部門以外は必ず、各部門で独算性をしておりまして、時として大きな取り組みをするとき以外は各部門がそれぞれ収支をきちっと賄うということが原則となっています。また、細かな点でうちの農協の取り組みの変わったところというのは、農協だけじゃなくて、町・共済・普及センターそろって、同じことをみんなで口にして、同じ方向を向いて取り組みをするということで進めてきています。営農対策協議会というものがありまして、その中でほとんどどう取り組んでいったらよいかということを技術員が協議して、方向性を出していくという形をとっていまして、各関係機関がバラバラなことを言わないで、悪く言えば嘘でも口をそろえて同じことを言っていくようにしています。そのほか、農業技術センターというところは、元々試験圃を作っていましたけど、最近はもう、ちっちゃな試験ではなくて、農家の戸々の畑で現地試験をするような流れになってきております。また、家畜自営防疫組合というものがありまして、独自に獣医さんを一人専任でおきまして、その中で、先ほど言いました病気検査などの関係、どちらかというとワクチンプログラム、予防といったことを主力において取り組みをしております。そのほか、財務体質強化という面では、かなり農家から反発はあ りましたけど、財形貯金ということで、死んでも使えない貯金という、使えないんじゃなくて下ろせない貯金ということで、農家の経営体質強化のために、貯金を強制的に積んできた時代もありました。ただそれも組合への理解をいただいてやってきております。うちの場合は、年に3回地区別懇談会ということで、各地区で、13地区ありますけど、農家との懇談会を開きながら、先ほど言った職員が日ごろの取り組みの中で、農家の状況なり、意見を聞くほかに、常勤職員がそろって、地区に行って、お話しを聞くのを年に3回やっております。また、第五次農業振興計画、平成4年から8年っていうのは、本当に生産拡大優先でどちらかというと、頭数を増やせ、乳量をしぼれ、ということで、購入飼料をたくさん使いながら、フリーストール・パーラーを導入しながら進めてきたという経過がありましたけど、先ほど言いましたように、その結果乳量は上がったけど、死廃率は増えたし、繁殖も低下してきたし、所得は増えたけど所得率は下がったという実態になっております。そういう意味では、土作り、草作りということを取り組まなくてはならないということで、牧草の早刈りなんかも推進しまして、早く刈ったら奨励金を出すという取り決めをして、オーチャードですと5月の早い時期、25日くらいから刈り取りをしております。平年ですと、だいたい6月1日からオーチャー、チモシーで6月10日ぐらいから刈り取りを始めるような形で、品質のよい品物を取るような取り組みをしてきております。そのほかさっき言った土壌分析の推進、SRU ということで土壌分析をしながら土作りをするグループなんですけど、オーストラリアのエリック・川辺というコンサルの人に土壌分析の結果に基づいて処方箋を作っていただきながら、学習しながら土作りをしているという取り組みを今20人くらいでしております。特に今の日本の土壌分析と何が違うのかって言うと、ミネラルについての考え方がかなり違いまして、カルシウムや亜鉛、マンガン、ホウ素等を施肥することによって、微生物活性を高めるというようなことで、取り組んでおります。学問的にはよくわからないんですけど、実際取り組んでいる農家の人が、疾病が減ったり、草の状態なり、コーンの状態がいいということで、引き続きこの取り組みをしており ます。そういう意味では、日本の土壌分析は30年40年経っても、分析手法も変わらないし、使い方についてもなかなか進歩がないということで、そういう面では現場の方が進んでるのかなぁというふうに思っております。このほか、先ほど言いましたように、農協職員が一方的に教えるということじゃなくて、常に共に学んで、教え合って、計算し合うということで、イスラエルだとかニュージーランドに農家と一緒に研修に行っています。特にイスラエルについては施設型の集約で、ニュージーランドは放牧という面での取り組みをしてますし、どちらもコスト低減ができるんじゃないかということで、農家の人と研修をするなど新たな取り組みも進めているところであります。今、第七時農業振興計画、14年から18年ですけど、先ほど言いました経営分析の取り組み、コンサル機能ということで、取り組みもしておりますし、哺育から初乳までの預託事業をしております。農家が預託するということは、その分どっかで生産性を向上するか品質を上げなければ、農協に預託するだけであれば経営は良くならない ということで、やっぱり農家でも使える人と使えない人、使うべき人、使えない人っていうことをきちっと判断していかなければなりません。コントラでも預託事業でも、時代の流れでいいからそれでやっていくという考え方では、決して農家のためにならないんじゃないかと思っています。
<肥料工場の建設>
あと肥料工場を建設して土壌分析を行っています。今までは土壌分析をしても、使える肥料がなかったので、半分の方は土壌分析をするだけで終わっていたんですけど、この肥料工場ができたことによって、選択する肥料があるということで、現場で実際に厳秘が進んだという実体にあります。
<予想される酪農の課題>
題目の3番目の「予想される酪農の課題」ということで、ごく当たり前の話ですけど、今、食料農業農村基本計画の見直しがされまして、基本的な方針はすでに打ち出しをされております。日本の農政はどちらかというと経済界が握った後に、その下で右往左往しているという状態です。今回も、例えば、自給率を5%上げましょう、というお題目をあげるんですけど、過去もそうですけど、なかなかそれは上がらない。当然、工業国ですから、工業製品の輸出が最優先されますから、その見返りに、微々たるものですけど農業、農産物を輸入する流れがどうしても止まらないし、今、交渉しているWTOの中でもこの流れは基本的に変わらないんじゃないかというふうに思っています。そういう意味では、今回の基本計画の見直しとあわせて、国自体は、諸外国と競争できない部分については、補助金である程度埋めるけど、今まで以上に国際競争力をつける形で取り組みをしていきなさいというふうに言っているようなものだなと私は捉えております。その中では特に、先ほど言ったように乳価が100円から70円に下がった分、農家は努力しておりますが、今後も国が言っておりますのは、2割ないし3割のコスト低減を求めてきているという実態があります。それを、そのまま受けるというわけではありませんけど、時代の流れとしては、やっぱり農業だけでなく、他の産業もそういう面では努力しておりますから、農業も基本的にはそういう努力をしていかなきゃならないと思います。特に、国―地方の財政状況が厳しいですから、今までと同じように農業政策にお金が出てくるのかというと、なかなか、そういう面では厳しい状況もありますから、おのずと削減の方向にくるんじゃないかなと思います。それともう一つは輸入差益によってまかなっていた農業補助金が、少なくなってきておりますから、一般予算の中から農業補助金が捻出しなきゃならないということで、一般消費者の理解を得られる補助金でなくてはなりません。どちらかといいますと今までは、政治家と官僚の中で、無駄使いとなっていた補助金がかなりあるんじゃないかなと思っておりますが、そういう使い方ができなくなると思っています。
<食の安全や健康>
それから、食の安全や健康については、ここに書いてありますとおり、当然取り組んでいかなきゃならないというふうに思っております。ただ、コスト低減をしていく中では、環境保全の問題が必ずでてくるんですけど、糞尿をはじめとして、いろんな問題でこの地球環境を守るということが必要になってきます。農業にとって意外と難しそうな感じがしますけど、でも環境を守る、環境保全をすることが、よくよく考えてみるなり、取り組んでみるとコスト低減につながっていくし、地域循環になっていく流れになっています。地域循環になるということは、当然アメリカからエサを買うよりは、ここまで持ってくる運賃や輸送エネルギーなりそういうことを考えるならば、地元で取れたものを地元で使うということの方がエネルギーロスもなくなりますし、当然払う金も地元で取れるほうが安くなることもありますから、将来的には地球環境を守るなり、保全することが、農業のコスト低減に貢献する分がかなり大きくあるんじゃないかなと思っております。現実的に先ほどいった減肥の問題についても、畜産の堆肥等を有効利用することによって肥料を現実的に減らせます。実態としては、肥料をまったく入れなくても作物がとれます。さらには、入れない方が品質のいいものがとれる。とくに今の50代60代の農家の方には、たくさんやればたくさん取れるという考え方がずっとありました。今の鹿追の地力では、入れた方が場合によっては品質が悪くなるという状況もでてきてるということですから、今言ったコスト低減に地域循環なり、堆肥の量が?がってきますし、環境を守るということがコスト低減に?がってくるんじゃないかなと思っています。
<鹿追町酪農の将来>
進むべき鹿追町の酪農ということでは、やはりコスト低減ということを考えていかなきゃならないと思っています。それと環境保全をすること。鹿追の場合、放牧という取り組みがまだ10戸くらいしかできてないんですけど、コスト低減にとって放牧が一番手っ取り早いなと思っております。でも農家がやる技術としては、誰でもできるとは思っていません。鹿追の中では、畑の配置によってもありますけど、5割くらいの方はできても、残りの5割くらいの方は厳しいのかなと思います。鹿追ではコントラ事業っていうのが進んでますけど、今はやれてますけど乳価が下がってきて農家の余裕がなくなれば、外に出す金を少しでも少なくしていくという面では、必ずしも今のコントラクタ事業が、この規模が維持できるとは思ってはいません。さっき言ったように農協というのはその時代に合わせて、農協があるから使ってもらうんじゃなくて、農家がどうあるかによってその事業の形態が変わっていきますから、今はよくても将来は縮小するなり、なくなるということもあるということで考えています。です から今鹿追として一生懸命やらなくてはいけないことは、放牧の技術を実践の中でどう取り入れていくのかということが重要であると思っています。
<生活面の改善>
所得については、はっきり言って、私の給料というか、うちの家族より鹿追の酪農家の方が遥かに所得が高いですから、今はですね、そういう面では農業者なり農家が規模拡大なり所得をどこまで求めていくのかというところについても、経済的な面もありますけど生活をどう豊かにしていくかっていう取り組みを、なかなか今まで農協としてはできなかったんですけど、そういう部分の考え方に取り組んでしかなきゃならないと思っています。
<女性の立場>
特に農村というのは女性に対する差別って言うほどじゃないですけど、通常の一般社会から見ますと封建的な部分はまだ残ってるんで、これらの声をどう反映していくのかっていうことが重要になると思います。でも、それに実際に取り組むのはおそらく男じゃなくて、女性自身がやっぱり取り組んでいく窓口なり、取り組める事業を開いていかなければならないかなと思っています。
<農家と農協職員の関係>
今後も農家と職員がともに計算し合える関係を維持しなくてはなりません。職員だけが優秀だとか、農家だけが優秀だとかいうことは、私は絶対にないと思っています。優秀な農家のところに優秀な職員が育つということで、共に計算し合える農協、農協職員と農家という立場を常々進めていかなくてはならないと思っていますし、一番の根源ということになりますのはやはり農家のための農協ということを常に忘れることなく取り組みをしていかなくてはならないというふうに思っております。
<皆さんへの期待>
それで最後に、皆さんに期待することということで、ということですけど、今年から、実践酪農学ということで3人、鹿追の酪農家で学んでいただいていますけど、一番最初に私が言ったように、勉強で頭に入るものと、農業、農家、酪農っていうのは実際にやるとでは全然違うということを知る必要があります。現実問題、学校で優秀で計算機やコンピュータを一生懸命弾く人は、だいたい経営がうまくいかないというのは、今までの流れでありまして、技術という面では、例えば畑作であれば作物が、状況をきちっとみれた上で、土壌分析なり施肥した結果がどのように表れてきているのかということが、見れるようにならなければ、次の改善のステップは、一般的に踏めないですね。ですから、農協職員だとか普及所の職員に「これどうするの?」っていう答えだけしか聞かない農家の人っていうのは、まず伸びないです。実際にその現場の作物なり牛を見て、何が悪くてそれは何からきているのかっていうことを現場から取り入れるようにならないと、本当の力にはならないのかなと思っています。基礎的 な学習としては、当然必要ですけど農業というのは、現場に出てやってみないと、その勉強したことがどれだけ力になる、役立つかっていうはわからないんじゃないかなというふうに思います。そういう面ではさっき言った土壌分析とかそういうものいろいろありますけど、農業の答えは最後、手元に残るお金の問題なり、労働力の、労働したことに対する報酬という形で返ってくるんです。例えば、牧草がたくさん取れればそれで儲かるのかといったら、そうじゃなくて、最終的に牛が、本当に、病気しなくて、乳が出て、コストがかからなければ儲かるということです。大学や試験場の勉強というのは、私の目から見てですよ、どちらかというと学問がバラバラにあるんですよ。土壌学だとか肥料学だとか、エサだとか栄養学だとか。だけど実際の営農をやっていくにはそれが全部一緒になって最後の答えが返ってきてはじめて生かされるわけです。そういう面では一つの面にこだわりすぎるとさっき言ったように経営がうまくいかないという実態があります。一つ一つの部門の勉強をするときでも自分の考え 方、理念がないとダメなのかな。極端な例を言うと、技術というのは考え方が変われば180度、良いものも悪いものも変わる。そういうもんですから、自分の農業に対する考え方なり経営に対する考え方があって、その中でその技術をどう使うのかという考え方が必要になってくるかなというふうに思っています。そういう面では実際にやってみないとわからない部分がありますけど、その点、今年からやっていますこの実践酪農学というのは、経営はしないけど作業なりそういうものを実際にやってみる中で得られるものは大きいんじゃないかなと思っております。農協、農業者としては、やはり将来的に経営に役立つ勉強ができるという流れが少しずつできてきているのかなということで期待もしております。何をしゃべったかわからないで終わりになってしまったんですけど、以上で終わらせていただきます。

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